9階の図書館に行こうと思って豊洲シビックセンターに入ると、1階でなにやら展示がされているのを発見。
江東区の「まちの記憶と未来展」という展示会が行われていて、江戸時代から水害と戦ってきた江東区の歴史と現在の親水化に向けたさまざまな対策が写真とイラストで解説されていました。
※この記事は2016年8月に「まちの記憶と未来展」を訪れたときのレポートです
筆者も知らないことばかりで、ついつい時間を忘れて見入ってしまいました。
とよすとの読者さんにもぜひ知ってもらいたいので、「まちの記憶と未来展」を参考に江東区の水害との戦いを要点をまとめておこうと思います。
徳川家康が作らせた小名木川から水運が発展
江戸中期、徳川家康は行徳(現在の千葉県市川市南部)の塩を江戸に運ばせるため、小名木四郎兵衛に命じて小名木川を開削させました。
小名木川は名所江戸百景「中川口」にも描かれている人工河川、つまり運河です。
これにより、旧中川と隅田川が水運で結ばれました。
この後、竪川や大横川、横十間川といった河川の開削が進められ、水運による物資の運搬が盛んになったそうです。
水害の多いエリアだった
ただ、水害も多く発生しました。
昭和33年(1958年)、台風11号の影響で亀戸エリアでは東京湾の高潮は2.89mに達したそうです(川の最低水位をA.P.0として計算)。
2.89mですから、住宅の1階の床から天井まで水位が上昇するイメージでしょうか。怖いですね。。。
これにより中川の堤防が約30mにわたって決壊。水が溢れた亀戸町では約2.47平方kmの地域が平均水深約1mの高さまで水で埋まりました。
また、同じく昭和33年に上陸した台風22号は東京で一日の降水量が392.5mmという記録的な大雨をもたらし、大島・砂町エリアの狩野川周辺で死者1,000人以上を出す大災害となりました。
このことから昭和33年の台風22号は「狩野川台風」と呼ばれています。
隅田川と荒川に囲まれた江東区・墨田区・江戸川区の一部からなるエリアは通称「江東三角地帯」と呼ばれ、江東区の30%がここにあります。海抜0m以下の地盤です。
最も地盤が低いのは旧中川周辺で、最低水位(A.P.0)からマイナス1〜2mとなっています。
地盤沈下との戦い
恐ろしいのが地盤沈下です。産業の発展が著しい地域だったため、工業用水や天然ガスを地下から汲み上げたことにより地盤沈下が頻繁に発生しました。
現在までに最も地盤が沈下した場所は南砂2丁目で、当初の水準点から最大で4.57mも沈下しています。
昭和中期、小名木川(北砂6丁目)では護岸のかさ上げ工事を4回も行われました。
現在、地盤沈下はほぼ止まっています。
昭和36年以降、工業用水法や東京都公害防止条例により、地下水の揚水規制や天然ガスの採取禁止が決まり、江東三角地帯の地盤沈下は昭和48年(1973年)から急速に減少。現在ではほとんど起こっていないとのこと。ホッとしました!
外郭堤防と水門の整備
そうそう、江東区には水門が多いな〜と思ったことはありませんか?国と東京都が江東三角地帯を高潮から守るために堤防と水門をたくさん建設しました。
これにより伊勢湾台風レベル(A.P.+5.1m)の高潮にも耐えられるそうです。
豊洲周辺では豊洲水門や東雲水門がありますね。辰巳水門など一部の水門には排水機構を備え、高潮を防ぐため水門を閉鎖しているとき、降雨で堤防内の水位が上昇するのを防止するため、ポンプで強制的に防潮堤の外へ排水します。
また、ららぽーと豊洲のところにある春海橋公園は傾斜になっていて街を守る防潮堤の役割を果たしています。
と、ザッとまとめてみたのですがいかがだったでしょうか?「まちの記憶と未来展」は2016年8月30日(火)の13時までとなっていますので、気になった方は豊洲シビックセンターまで足を運んでみてください!
写真や歴史的なデータがまとめられたこんな冊子も無料で配布されていますよ♪