空撮した昔の地図が無料で閲覧できる「goo地図」があまりにも素晴らしくて、ついつい眺め続けていたら半日が終わってしまいました(笑)
goo地図はポータルサイトのgooが国土地理院と米軍が撮影した空中写真を基に製作したもの。
明治時代、昭和22年、昭和38年の3つの地図をそれぞれ切り替えて表示でき、過去と現在の東京を比較しながら見ることができます。
特に当時は人口が少なく、残っている写真資料が決して多くない豊洲・湾岸エリアにとって、goo地図は貴重な資料であり、今後もめちゃくちゃ活用しそうな気がしています。
※記事内の画像はgoo地図より
もし、豊洲や湾岸エリアの歴史に興味がある方はこちらの記事もぜひチェックしてみてください。
goo地図で明治・昭和の豊洲を見てみる!
湾岸エリアのなかった明治時代
明治時代のgoo地図では、日本橋を中心とする東京の一部を見ることができます。
湾岸エリアの端に位置する佃や住吉神社もしっかり記載。月島もすでに誕生しています。また、現在の東京海洋大学の場所には商船学校と表記されているのがわかりますね。
当然ながら、まだ埋め立ての行われていなかった豊洲は載っていません。海に今のような巨大な土地ができるなんて、この地図からは想像もできませんね。
昭和22年の時点では豊洲埠頭はない
終戦の2年後に撮影された昭和22年(1947年)の地図では、造船所である石川島播磨重工業(IHI)のドックに船が入っているのが明確に写っています。視線を左下に落とすと、まだ豊洲埠頭(豊洲6丁目)の土地はありません。
豊洲の街は更地のままの場所もあったり、現在の豊洲駅やスーパービバホーム、豊洲1丁目付近までは大きな建物がほとんどなく、今の豊洲と比較するとまったく姿が違います。
なお、戦争で中断していた豊洲埠頭(豊洲6丁目)の埋め立てが再開されたのはこの2年後、昭和24年(1949年)からです。
当時、米軍に接収されて使用できなかった晴海埠頭に代わる場所として唯一残っていたベストな土地が豊洲であり、豊洲埠頭の工事が凄まじいスピードで行われたそうです。
鉄道や工場の街だった昭和38年
昭和38年(1963年)の地図を見てみると、石川島播磨重工業(IHI)や日新製糖、巴組鐵工所(巴コーポレーション)をはじめとする工場が立ち並び、それらの工場で働く人たちが住んでいたであろう長屋がたくさん見てとれます。
また、豊洲埠頭(豊洲6丁目)もできていますね。豊洲エリアに広がっていた数々の線路も。
この線路はもちろん今でもその一部が残っている東京都港湾局専用線の晴海線や深川線、豊洲物揚場線です。よく目を凝らして見てみると、貨車の存在も確認できますよ(^^)
高度経済成長期の前半にあたるこの時期には、需要の増す石炭・鉄鉱石・鋼材・電力・ガス・科学原料・雑貨などがここから越中島駅(越中島貨物駅)を経由して日本の各地に運ばれ、日本の高度経済成長に大きく貢献したわけです。
過去と現在の湾岸エリアを見比べてみよう!
ということで、豊洲が好き過ぎるあまり、昔の街が見られるgoo地図に興奮してついつい記事化してしまいました。
昔と今の位置がわからなくても、goo地図に備わっている“地図を重ねる”機能を使えば問題なし!明治や昭和の地図を開きながら、そのなかに現在の駅名やスーパー、学校などの名称を重ねて見ることができます。
地図を重ねると、たとえば、東京都港湾局専用線の深川線と晴海線が分岐していた場所は豊洲北小学校とスーパービバホームの間だったんだな、とハッキリ位置関係を確認できわかりやすいです。
goo地図はGoogleマップと比べて動作が重く、ときどき止まってしまうことも多いので閲覧していてストレスも溜まりますが、ぜひ昔の湾岸エリアや豊洲を見てみたい方はチェックしてみてはいかがでしょうか!